先日、舞台を観ました。

柳田國男の有名なお話ですが、
そのまま小説どおりではなく(本どおりだったら短編数珠つなぎになっちゃう)
「遠野物語」をモチーフにした舞台・・といった感じ。
あらすじは説明がどうにも難しいので、以下チラシを抜粋。
今は昔、あるいは未来。
現実から少しずれた架空の日本。
社会の合理化を目指す「標準化政策」により、全て「標準」が設定され、逸脱するものは違法とされた。
物事は真と偽、事実と迷信に明確に分けられ、その間の曖昧な領域を排除。
作家のヤナギタは東北弁で書かれた散文集を出版したことで任意同行を求められる。
内容も迷信され、警察署の一室で事情を聞かれる。
迷信を科学的に解明する著名な学者・イノウエが召喚され聴取に加わる。
ヤナギタは、内容は迷信ではなく事実だと主張する。
それは東北の青年から聞いたノンフィクションであり怪談とは違うという。
散文集「遠野物語」のエピソードを紹介しながら、
ヤナギタとイノウエは、真と偽、事実と迷信、この世とあの世といったものの、間の世界へ迷い込んでいく。
・・・・どこを抜粋していいやら判らず長くなってしまったよ(-_-)
「遠野物語」を元にしているので、出演者ほとんどが
遠野弁。
といっても、そのままきちんとした遠野言葉だと観ている人が全然内容が解らなくなってしまうので、
もう少し聞きやすい、軽い東北訛りというカンジで(^^)
仙台公演では、ごく普通にお客さんが笑っていたけど、
これって
大阪公演とかあったよな?分かったのかな?
関西の友人にメールを入れたら、やっぱり言葉が解らないところが結構あったもよう(^^;)
特にスゴイな~と思ったのが、池谷のぶえ
(敬称略)のオバチャンっぷり。「あぁこういうオバチャン居るよね~」と思えて、何だか親しみが(^^)
それと瀬戸康史
(だから敬称略)。長セリフもすらすらとしっかり遠野言葉が浮いてない。
役者サンってスゴイな~(^^)
なぜか3冊持ってる原作。中身は同じなんだけど・・・「遠野物語」好き(^^)
妖怪がいる世界~・・・って、云っても、流行りの“ファンタジー”でなく
リアルに“人ならぬもの”が隣に居るのが受け入れられている世界。
悪いヤツも居るのが当たり前だけど、
神様も当たり前に居る・・・・世界。
実際に、柳田國男が
「遠野物語」を出した当時、
語り部となった遠野の青年(佐々木氏)は地元で批判されたというのは有名な話。
それだけ地元(遠野)ではこの世界が、現実のこと、外聞が悪いこと、外に話してはいけないこと、として認識されていたってことよね。
原案の
「遠野物語」のそんなところを、仮想の日本にして、うま~くズームされていました。
タイトルを見た時は、
河童やおしらさまが出てくるブラックファンタジーな話かな~なんて想像していたのに、
全っ然違った!
ファンタジーどころか、
超現実世界だった(^^;)
舞台の世界は
“架空日本”設定になっていて、どこかずれているけど、
何でも人と同じであることが一番大切な事のように扱われる“今”とあながち離れていないような気がするな~。
“標準”が政府によって決められ取り締まられて・・というのは
、「図書館戦争」(@有川浩・著、映画化もした作)でもあった設定だな。
“今”がいかに標準を押し付けられているか~の危機感を感じている人が文化人(物書きを文化人と一括りしていいものか判らないけど)に多いということだろか。
なんでもかんでも中央の
“標準”を押し付けられる~って、とても気持ち悪い。
標準だけの世界なんてそれこそ
怪談だよね。
“人ならぬモノ”がいて、死んだお婆ちゃんが語りかけてくるような世界の方が、ずっとずっと人間らしい。
これって私が、標準じゃない仙台弁の中でずっと生きている人間だから?(^^;)
この舞台を観ていたら・・・・“人ならぬモノ”が当たり前に居るのって、
遠野が・・東北が・・
標準から離れて蔑まれて生きてきたってことの証かな~なんて思ったりも。
生(なま)で観て・・・
う~ん、芸術の秋してらっしゃいますね。
うっかりチケット・・・やっぱり、ステキなご縁が
あったからこそ・・・でしょう。
(*^^*)
ココロに栄養と体力つけて、
またエイっ・・・と頑張れそうですね。
きとさん、ステキなおすそわけ・・・ありがとうございました。